ワンオペ育児について。妻が主体者になると、夫が主体的になれないのはしかたない。

Facebookである著名人がこのリンクを紹介していたので、読んでみました。ママが気づいた「ワンオペ育児よりしんどいこと」という漫画。(ここではリンクをつけませんが、関心のある方は、検索してみてくださいませ)。本当に真実をついた話だと思います。

夫が土日に家事と育児をしてくれず、休みの日なのにワンオペ育児になってしまうことが心の負担であるということだ。期待しなければラクなのに、期待するからとてもつらい。「この人がいなければいいのに」という気持ちになってしまう。結局、夫に子供たちを連れてお出かけしてもらうことにして、やっと一人の自由な時間を楽しむことができたという漫画。

奥さんの立場としては、自分がすべて段取りして、頼んだことしか夫はしてくれない。頼んだことすらきちんとしてくれない。なんでわたしだけが、こんなに家事と育児を負担しなければならないのだろう、と悩んでつらい。でも、夫は、頼んだことをしっかりしただけで、「自分はよその人よりずっとやっている」と思うので、奥さんがそんなことを考えているとはしらない。

人間は、一人責任をもってやっている人がいると、ほかの人たちは主体的になれない。ワンオペ育児に関しては、いつも奥さんが主体で、夫が悪い、という議論になってしまうが、そうではないかもしれない。

わたしも、実家で夫と子供たちと暮らしていたときは、家事は母に任せきりで、あまり主体的ではなかった。日々の料理は、母がやってくれればそれでいいと思っていた。今は実家に住んでいないので、私が家事と育児のすべての主体だ。でも、時々母に来てもらうと、たちまちわたしは家事の主体からはずれる。冷蔵庫の中のものの点検もしなくなる。母が実家に帰った後に使っていない食材が残っていると、「なんで使ってくれなかったのかな」とか思う。

今年から上の娘が大学一年生で、夜はバイトや友達との約束でいないことが多い。昨年は受験生だったので、家にいて、晩御飯をよく作ってくれた。「今年は戦力落ちたよね~」というと、娘は、「大学生の中では、すごくお手伝いしてると思うけど」と言い返す。それもそうだ。

ワンオペ育児の話も、妻と夫がまったく対等に主体的になれる状態というのはめったにないと考える。たいていの場合、妻が家事と育児の主体だろう。たとえば、夫が中学受験の主体だったとする。夫は、「奥さんは真剣に手伝っていない」と思うこともあるだろう。奥さんは、中学受験くらい夫に任せればいいと思っていたりするだろう。 

一人が主体的にやると決めたら、そのように納得するのがよいのではと思う。この漫画の例では、夫に子供たちを連れて一日外出してもらった。そうなると、この日は夫が主体だ。このように、責任をしっかり分けてしまうのが得策ではないだろうか。仕事もそう、家庭もそう。

この漫画で奥さんがうつうつと悩んでいるような状況を回避しようとすると、本当に一人で子育てをすると決めることも、一案である。しかし、一足飛びにそういう決断をせず、「子供をつれて一日外出してもらう」という策を考え付いたことがよかった。

この問題を仕事に置き換えて考えてみよう。仕事では、それぞれの人に役割を決める。それに基づいて評価や報酬が決まる。昇進すれば、ひとつ上の段階の仕事に進める。つまらないように見える仕事も、次にいくステップとして考えれば乗り切れる。一生その仕事をしないといけないわけではない。

共同してやる仕事の場合、主体的に行った人は、通常はよい評価を勝ち取り、得をする。主体的に働かず、言われたことしかしなかった人は、評価が低くなる。

家事・育児の場合は、主体的に行ったからといってだれもほめてはくれないし、昇進も昇級もない。やらずにすめばありがたい。奥さんが主体になっている場合、夫が主体的にならないのは当たり前。そのくらい、割り切って考えないといけないのではと思う。夫が少し主体的になるのは、なにかご褒美があった時だけ。それは、奥さんに褒められる、感謝される、子供に好かれるなどであろう。それがないと、家事・育児は続かない。