P&Gでのキャリアの始まり

大学3年生の春休みに急遽休学届けを出して、ロンドンとパリに語学留学をしました。2月に日本に戻ってきて4月に復学しました。

幸い、P&Gのファイナンス部門に内定をいただいて新卒で入社することができました。最初の配属は明石工場で、当時そこで大人用と子供用の紙おむつと生理用品を作っていました。私はもともと大阪の淀屋橋の本社で働くことを期待していたのですが、いきなり明石工場の経理部に配属になって、とてもがっかりしたのを覚えています。工場は、なんと実家から車で通えるのです。でも少し1時間を超える通勤経路だと説明をして、明石にアパートを借りてもらいました。せっかく社会人になったのだから家から通いたくはなかったのです。

配属は経理部の原価計算担当で、男性の先輩が1人、事務職の女性が1人。もともと経理部は大阪にあったのですが、手狭になったので明石工場に移動していました。私は明石工場では初の総合職女性でした。今では先進的なP&Gも当時はまだ女性の総合職は少ない状況でした。当時経理部では女性だけに郵便物を受付に取りに行ってみんなに配ると言う当番がありました。私ともう1人の女性の同僚は総合職だったけれども郵便当番に入れられました。男性の同僚は当番には入っていませんでした。とても懐かしい話しだ。でもその後仕事が忙しくなったら女性の同僚が代わりに行ってくれたりしました。今思い出してもありがたいことです。

半年ほど経って、大阪の本社に転勤になりました。そこでは日本子会社の利益予測をまとめてアメリカの本社に報告する仕事を担当しました。当時は働き方改革なんてなかったので、毎日日付が変わる頃まで働きました。今思えばパソコンも1人1台なくて、とても非効率な働き方。なんとメールがなかったのです。今となってはどうやって働いていたのかわかりません。大学では文学部だったし、会社に入ってもまともな研修もなかったので、とにかく前の人がやったワークシートに数字を入れて仕事をするだけの仕事ぶりでした。


中途採用でMBAの人を採用して、MBAでどういうことを勉強するのかを聞く機会がありました。私もMBAに行きたいなと思いましたが、仕事はとても楽しかったし、まさか会社を辞めてアメリカにMBAに行くなんて事は考えませんでした。でも何か勉強しないとと言う事は考えていたそこで思いついたのは税理士試験。会社に言わずに大原簿記学校の法人税講座に申し込んで行き始めましたが、もちろん当時は通信課程もなく週に4日位3時間ずつ通わないといけなくて、とてもじゃないけど通えないので、1ヵ月で辞めてしまいました。

まだまだP&Gも日本人男性が支配する社会でどんな勉強すればいいかわからないままがむしゃらに働いていました。その後神戸に本社ビルを建てて日本がアジアHQになりました。私もアジアの仕事に移ることになり上司が外国人ばっかりになりました。実はそこから道が開けたのです。やっとまともな外資系になったのです。その後は外国人の上司に恵まれ、32歳で部長職になり、その後二人の娘を出産して働き続けることができました。ありがたいことです。